大月市議会議員 藤本みのる ホームぺージ|プロフィール

プロフィール

 藤本みのる 普段の姿(議会外の活動)

 

 

         デイサービス送迎も12年目に

         春の農作業 鳥獣除けの設置

        1期目にシオジの森の研修に参加

      登山者に鳥沢駅トイレ設置の署名呼びかけ

駅舎新築でトイレが無くなりましたが、再設置されました!

「駅時計再設置へ署名提出(2022年2月25日」。その後再設置されました!」

かがり火市民祭り実行委員(癒しの竹小路)も9年目に。2023年8月5日

  幡野正八幡神社式年大祭で参詣神楽を舞いました

        自家用トラクターで春の田んぼ

    愛犬と自宅の庭で

 

 略歴

 

 

大月市議会議員 藤本 みのる

 

昭和44年2月10日(54歳)
現在 大月市猿橋町小篠853番地在住
中央大学経済学部経済学科卒業
平成23年7月大月市議会議員初当選   1141票 当選15人中8位
平成27年7月大月市議会議員2期目当選  1333票 同 14人中4位
令和元年7月大月市議会議員3期目当選  1248票 同 14人中5位
令和5年7月大月市議会議員4期目当選  1013票 同 14人中4位

 

【議会内の役職】
社会文教常任委員会委員長
市議会広報委員会委員長
議会運営委員会副委員長
山梨県後期高齢者医療広域連合議会議員

 

【その他の所属団体、役職】
郡内健康友の会幹事

 

【スポーツ】
・小学校 競泳大会出場
・中学校 バスケットボール部所属 キャプテン(3年生)
      3年間駅伝大会に出場
・高校  バスケットボール部所属 キャプテン(3年生)
      強歩大会(30キロ走) 優勝(2年生)

 

 エピソード

 

1.『変えるとは、つくりだすこと』 私の原点
◆「積木くずし」(1980年代半ば「第三の非行」の時代と言われている)の時代 都留高生徒会での体験
◇混沌から秩序へ
生徒集会での先生の怒声、一部上級生の暴力支配と学校の荒れ−藤本さんは「何かを変えたい」と生徒会役員選挙に立候補しました。
上級生から暴力支配を受けてきたグループの悲痛な体験も聞き、「俺たちの代で変えるべき!!」と生徒会本部の活動を始めました。
彼らはこれを「俺たち維新軍」と称しました。
藤本さんたちは、暴力的支配の力関係を生徒自治の力で変えようとしたのです。
生徒自治の力をつくり出すのは一人ではできません。教師、生徒、父母(地域)相互の力が必要です。
ここに重要な働きをしたのが学園祭[若鶴祭]でした。

 

◇若鶴祭 ー感動、びっくり、開閉祭り行事
それまで一部の人たちだけで盛り上がっていた「若鶴祭」でしたが、藤本さん
たちが準備した[若鶴祭]は「鳥肌立ちっぱなし。ああいう感動は言葉に表せ
ない」と全生徒を感動させ、初のエレキバンドの中庭演奏では学園祭の趣旨
説明と了解を得るために近隣に加えて中央病院まで足を運ぶなど、生徒主役
で総合的な学園祭として成功させました。
都留高の伝統に《仲間を育てあう素晴らしさ》というページを刻みました。
それまではなり手がなかった生徒会役員でしたが、次の年には五人も立候補
して学校の雰囲気がガラリと変わりました。

右から2人目

◇当時の生徒会顧問 淡路克浩先生の談話
藤本実君は一本気で突つ走るところがあるが、新しい試みにひるむことなく挑戦し、都留高生徒会の歴史の中でも画期をなす仕事をしたと思います。
人生の基礎をなす高校時代にあのような生徒会活動をつくりあげたことは彼のその後の人生を大きく変えたことでしょう。
今回、一回り大きくなって故郷に戻ってきた藤本君の活躍に期待しています。

 

2.社会に目がひらかされた学生時代
◆日本共産党との出会いも
◇藤本さんは中央大学に入学して、宇宙や人間の歴史、最新の科学研究にふれて自分の視野の狭さに衝撃を受けました。
先輩に党員がいて日本共産党にも出会いました。
大学2年で友人たちと現代社会科学研究会を立ち上げ、先生や院生の指導も受けてマルクスの『資本論』を読みました。
卒業論文は「日米経済摩擦」で、経済学部の各ゼミから1人が掲載される論文集に推薦されました。
藤本さんは、サークルや民青同盟の仲間と学費問題や社会問題など多彩な活動をしてきました。
広島に自転車を担いでいき、原水爆禁止世界大会に参加したのも思い出です。
◇中央大学経済学部 米田貢教授 談
25年間のゼミ指導の中で、藤本君ほど研究者の道にすすむべきだと思った学生はいません。
期待とは裏腹に、彼は「社会的弱者のために」と日本共産党に就職(?)しました。
親思いの彼が、今度は故郷に戻って地元の活性化に全力をつくします。大月市民の皆さんがうらやましい。

 

3.よりよい社会をめざして20年
◆新聞配達から国政候補まで
◇藤本さんは、就職時に株取引のディーラーか日本共産党の勤務員になるか迷いました。
1人でも多くの人を幸せにできる仕事として、藤本さんは共産党を選びました。
アメリカ中心、大企業中心で国民のくらしが二の次とされている政治を変え、国民が主人公の新しい政治をつくりだしたいと考えました。
最初の5年間は朝3時からの赤旗新聞の配達の責任者をして、その後は八王子地区の指導部の仕事をしてきました。
また、地域住民の要求実現のために尽力してきました。
その後、衆議院候補となり、国政に2回挑戦、「茶髪の候補」 「ニュー共産党」などと新聞にも取り上げられ、テレビ出演もしました。
◇妻・藤本亜紀子 談
根が真面目なので、見た目にギャップがあっても良いのでは‥・と茶髪にしました。
人気声優に似ていると言われて喜んだりしました。共産党には、お笑い出身の議員などもいるんですよ。

 

4.息子を語る 父・藤本匡支(平成23年当時)
◇息子は子供の頃から畑や家の手伝いをよくしてくれる子で、
中学、高校ではバスケットボール、駅伝大会などに出場していました。
親に心配をかける子ではなかっだのに、「共産党に就職する」と
切り出された時には本当にびっくりしました。
その後、20年の月日がたちました。同居して一年になりますが、
家族思いの姿を見てきました。
気負った感じのない純な男です。
ぜひみなさんで育ててやってください。

中段左から3人目

 

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